この話を聞いてふと、平松さんの事を思い出しました。平松さんは1927年1月25日に台湾の彰化県の線西鄉で生まれた方です。再び、ネットで平松さんの父親の名前"平松毅雄"を検索してみました。意外にも、新しい資料が見つかりました。
実は私は以前彼について2010年3月2日に他のブログに書いたことがあります。しかし、その後、そのブログのURLの使うことができなくなったので、ブログの記事もなくなりました。
2010年2月初め、私の長崎にいる友達が三人の日本人の友達と一緒に、ツアーに参加して、台湾へ旅行に来ました。四日間のツアーの最終日の夜、私はホテルで、一緒にお茶を飲みながら、喋りました。その時、びっくりしたのが、四人とも台湾の政治の事に関心を持っていたことでした。会話の内容は主に政治の話ばかりだったのです。
その中の、当時、83歲の平松さんは台湾の線西の事を教えてくれました。父親の平松毅雄さんが台湾の田舎の線西の小学校(公学校)の先生をされていた時に生まれ、間もなく東京へ移動したので、線西の記憶は全くありませんが、いつか、自分の生まれたところ--線西へ訪ねて行きたいと教えてくれました。その上、私に台湾地図の中にある線西の位置を示してくれました。思いもかけないことから、線西國小のことが分かりました。線西は田舎で、交通が不便なので、外国人が一人で行くのは難しいと思います。私は彰化県に住んでいる親戚がいますので、都合が合えば、ご一緒できます。
その年の旧正月、家族と鹿港へ旅行した時、車で線西工業区を通過しました。その時、「線西区」と書かれた地域名標の写真を撮って平松さんに送りました。しかし線西工業区を通過しただけで、実際に線西の町には行かなかったので、線西がどのようなところなのかを想像することはできません。
「線西の写真有難うございました。私は父が田舎の小学校(公学校)の先生をしていた時に生まれ、間もなく東京へ移動したので線西の記憶は全くありませんが、何だか懐かしい気がします。」
その後、私はネットで、線西國小百週年校慶のブログを見つけました。線西國小は百年以上の歴史を持っているので、多分、平松さんのお父様はこの学校の先生だと思っていました。しかし、日本人の先生の名前のリストの中に、平松という名前はありませんでした。すぐにまた、平松さんに確認しました。
次の返事をいただきました。
「民国10年8月1日(1921)は私の父平松毅雄です。「平松」が印刷の誤りで「一干松」になっていたのでしょう。私は1927年の1月25日生まれですから、父の次の第5代校長着任の1928年3月にはもう線西にはいません。線西の記憶は全くありませんが、あなたのおかげで色々な事実が判明して感激しています。」
しかし、一歳未満で、台湾を離れて、東京に戻りました。台湾に関する記憶がなかったはずなのに、なぜ、年を取ると、昔、父親が台湾にいた消息を調べたがっているのでしょうか?自分を生まれたところを知りたがっているのでしょうか?大変、興味がわきました。再び、平松毅雄さんの事を調べました。新しい資料によって、平松毅雄さんは台湾にいた流れを一層明確になりました。
平松毅雄(1896年8月16日-1983年10月28日)、長崎出身です。平松毅雄は長崎中学校を卒業後、台湾に行かれました。
1917年、(21歳)公學師範部甲科(今日の國立台北教育大學。当時、日本人の教員を育てた学校です。)を卒業しました。
1920年8月に、臺中廳彰化第一公學校(彰化縣中山國民小學)の教諭になりました。
1921年から1927年までに、線西公學校の校長として、勤務していました。
1928年から、東京に戻り、物理学校に行かれました。
1932-1940臺北州州立臺北第一中學校(今日の建國高級中學)の教諭をしました。
その後の記録はありませんでした。
ですから、1927年1月25日、平松さんは父親が線西の小学校(公学校)の先生をしていた時に生まれ、1928年、東京へ移動しました。父親は台湾の学校を退職して日本の学校に入学して、再び勉強しました。1932年、五歳のころ、父親の仕事の関係でまた、台湾にもどりました。1932-1940臺北州州立臺北第一中學校(建國高級中學)で教えました。幼稚園から小学校の低学年の時、台湾で過ごしました。大変歓された記憶があります。
平松毅雄さんは帰国後、長崎海星学院で数学を教えておられました。 平松さんは長崎大学を卒業され、一般の会社に勤務されていましたが、定年後にかねて趣味で勉強していた英語、フランス語の講習会の教師を佐世保でなさったり、一年間、アメリカに日本文化の教師として滞在されたり、佐世保にはアメリカ海軍の大きな基地があるので、そのアメリカの子供達のための学校もあり、日本語の教師として働いたりなさいました。台湾の他には、、中国、シンガポール、韓国、ハワイ、オーストラリア、ニューヨーク、ロスアンゼルス、メキシコ、北京などによく外国へ旅行に行かれました。現在は、福岡に住んでおられるそうです。
次の返事をいただきました。
「民国10年8月1日(1921)は私の父平松毅雄です。「平松」が印刷の誤りで「一干松」になっていたのでしょう。私は1927年の1月25日生まれですから、父の次の第5代校長着任の1928年3月にはもう線西にはいません。線西の記憶は全くありませんが、あなたのおかげで色々な事実が判明して感激しています。」
しかし、一歳未満で、台湾を離れて、東京に戻りました。台湾に関する記憶がなかったはずなのに、なぜ、年を取ると、昔、父親が台湾にいた消息を調べたがっているのでしょうか?自分を生まれたところを知りたがっているのでしょうか?大変、興味がわきました。再び、平松毅雄さんの事を調べました。新しい資料によって、平松毅雄さんは台湾にいた流れを一層明確になりました。
平松毅雄(1896年8月16日-1983年10月28日)、長崎出身です。平松毅雄は長崎中学校を卒業後、台湾に行かれました。
1917年、(21歳)公學師範部甲科(今日の國立台北教育大學。当時、日本人の教員を育てた学校です。)を卒業しました。
1920年8月に、臺中廳彰化第一公學校(彰化縣中山國民小學)の教諭になりました。
1921年から1927年までに、線西公學校の校長として、勤務していました。
1928年から、東京に戻り、物理学校に行かれました。
1932-1940臺北州州立臺北第一中學校(今日の建國高級中學)の教諭をしました。
その後の記録はありませんでした。
ですから、1927年1月25日、平松さんは父親が線西の小学校(公学校)の先生をしていた時に生まれ、1928年、東京へ移動しました。父親は台湾の学校を退職して日本の学校に入学して、再び勉強しました。1932年、五歳のころ、父親の仕事の関係でまた、台湾にもどりました。1932-1940臺北州州立臺北第一中學校(建國高級中學)で教えました。幼稚園から小学校の低学年の時、台湾で過ごしました。大変歓された記憶があります。
平松毅雄さんは帰国後、長崎海星学院で数学を教えておられました。 平松さんは長崎大学を卒業され、一般の会社に勤務されていましたが、定年後にかねて趣味で勉強していた英語、フランス語の講習会の教師を佐世保でなさったり、一年間、アメリカに日本文化の教師として滞在されたり、佐世保にはアメリカ海軍の大きな基地があるので、そのアメリカの子供達のための学校もあり、日本語の教師として働いたりなさいました。台湾の他には、、中国、シンガポール、韓国、ハワイ、オーストラリア、ニューヨーク、ロスアンゼルス、メキシコ、北京などによく外国へ旅行に行かれました。現在は、福岡に住んでおられるそうです。
1927年1月25日、平松さんは台湾の彰化県の線西鄉で生まれました。台湾で生まれた日本の方は“湾生”と言えますか?
中研院台灣史研究所台灣總督府職員録系統に載せている資料より、
平松毅雄(9筆) - 臺灣總督府職員錄系統
姓名 日本紀年 西元紀年 單位名稱 官職名 頁碼
平松毅雄 昭和七年 1932 臺北州州立臺北第一中學校 囑託
平松毅雄 昭和八年 1933 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和九年 1934 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十年 1935 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十一年 1936 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十二年 1937 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十三年 1938 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十四年 1939 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
平松毅雄 昭和十五年 1940 臺北州州立臺北第一中學校 教諭
沒有留言 :
張貼留言