立石鐵臣:「揀茶。」(圖片:作者翻攝自《立石鐵臣‧台灣畫冊》 |
人生總是很奇妙,每個出現在你生命中的人,可能都具有不同的存在的價值,我有一位日本朋友似乎是引我入日治時代台灣美術的世界的人。2012年,我們一同去參觀台北市立美術館,理由只是她來往台灣數十年卻未曾去過,所以並不是了看什麼特展而去,只是去看看。然而,在這次的展覽中,卻意外的看到了郭雪湖先生的《南街殷賑》畫作,當時我只覺得這幅作品是色彩鮮艷熱鬧的迪化街,然而,我的日本友人卻深深的被畫吸引,並且開始研究,而後在她記錄訪台一年半的部落格中,撰寫了一篇郭雪湖先生的《南街殷賑》畫作的研究文章。由於我覺得她寫的很有趣,我便摘譯成中文---郭雪湖---「南街殷賑」---一位日本人不一樣的繪畫鑑賞
2016年,這位日本朋友又在FB上介紹了立石鐵臣的畫作,立石記錄台灣百姓的民俗畫又吸引了我的目光,因而讀了《立石鐵臣 台灣畫冊》。我想立石鐵臣應是最早速寫台灣百姓生活的畫家,他繪製其所見的台灣人生活習慣同時在畫中以日文下註解,更有趣的是雖是日文註解,但漢字拼音全以閩南語發音的片假名註記,例如:「揀茶キュンテェ」我想他應該可以說很流利的的閩南語吧!這使我看起畫來,更感到親切。
《立石鐵臣‧台灣畫冊》:作者翻攝 |
但是,以上都是這位日本朋友引我認識日治時期畫家的契機,我覺得有趣但並沒有太著迷。直到數日前聽了一場上海銀行所舉辦的的豐富人生講座系列,林育淳老師主講的「臺灣文化DNA-從郭雪湖1930年描畫故鄉大稻埕/北美館鎮館名作《南街殷賑》談起」。我對日治時期的台灣美術有了更深一層的認識。她又提到可以看看電視劇《紫色大稻埕》。
紫色大稻程的官方照片 |
《紫色大稻埕》,2016年台灣電視劇,改編自謝里法的小說《紫色大稻埕》。
電視劇《紫色大稻埕》中施易男飾演的江逸安,借用了「錦記製茶會社」陳清汾的背景和部分故事,雖然陳清汾的部分幾乎都是想像和虛構,整劇以「江逸安」為主要角色,集結了其他畫家的經歷,串成《紫色大稻埕》,但我卻因劇而跟著主角江逸安一同認識日治時期的台灣畫家,對過往的大稻埕有更大的認識和想像。
錦記茶行,筆者攝於牛2017年3月 |
就在此時,無意間又重新看到立石鐵臣的畫作「揀茶」,這是令人開心的再邂逅,「揀茶」的註解裡清楚的寫到陳清汾先生的茶館在淡水河邊,有「停仔腳」,茶館兼具再製工場和出口商店的功能。茶葉的種類有烏龍茶、包種及紅茶三種。包種茶則會加入黃枝、茉莉和秀英等花香。確時,在當時錦記茶行是直接面對著淡水河,是一座可以欣賞淡水河景緻的觀景豪宅,日本裕仁太子訪台時都曾經到此駐足。
雖然電視劇中並無加入立石鐵臣這個角色,但立石鐵臣和陳清汾同為為「台陽美術協會」的發起人,所以應該是茶行的常客,經常往來大稻程,與畫家論畫。畫家往往會描繪自己所愛的景象,立石先生的作品極為親近台灣人生活,可以看出一位畫家對台灣的喜愛。立石與台灣人畫家之間的友誼應是單純的畫友和朋友關係,而不是殖民者日本人和被殖民者本島人之間的關係吧!他與台灣人之間的關係若無文字記錄,則隨風而逝,但是他筆下的台灣,似乎又說明了一切。
錦記茶行
【地址】 台北市貴德街73號
立石鐵臣の「揀茶キュンテェ」の中に書いた陳清汾の茶館(錦記茶行)
2016年、この友達はまたFBで立石鐵臣さんの絵を紹介しました。ですから、立石鐵臣さんは台湾の民俗絵をたくさん描いたことが分かりました。その上に、私は台湾で出版された《立石鐵臣 台灣畫冊》という本を拝読しました。立石鐵臣さんは多分、一番早い台湾の庶民生活をスケーチした画家だと思います。また、台湾の庶民生活のスケーチに日本語で説明したが、日本語の漢字に台湾語の発音を片仮名で付けました。たとえば、「揀茶」をキュンテェの発音に付けいました。立石さんはきっと、流暢な台湾語を話せる方だと思います。それで、立石さんの絵を見ると、親切な感じをしています。
これらは私が日本時代の台湾画家を知ったきっかけです。その時、私はただ面白いだと思い、あまり夢中になってなかったです。しかし、先日、林育淳さんが講演した「臺灣文化DNA-從郭雪湖1930年描畫故鄉大稻埕/北美館鎮館名作《南街殷賑》談起」で、私は日本時代の台湾美術に一層深く認識されました。講演会の中に、台湾のテレビ番組の《紫色大稻埕》を言及しました。
その故、私はドラマの《紫色大稻埕》を見ました。主人公の江逸安さんの原型は「錦記製茶會社」の陳清汾さんの背景と部分物語を借りて、殆どが想像とフィクションした語りですが、主人公を中心として、その時代の画家だちと繋がって、《紫色大稻埕》の物語になりました。私はドラマを見ながら、主人公と共に、日本時代の台湾画家と大稻埕の歴史を少しずつ理解していきました。
この時、再び、立石鐵臣の「揀茶」を見ました。何となく嬉しいことです。「揀茶」という絵に、書いたのは下記の通りです。
「古い台湾人街、淡水河に添って茶館が並ぶ、河にジャンクが入り、貿易の便のためであった。陳清汾先生の館もこの一角である。停仔腳と言って、二階の下が歩道になっているのは暑い台湾の全ての道に面した家のやり方である。茶館には再製工場と輸出業店との二種類があり、茶の種類には烏龍茶、包種及紅茶の三種がある。包種茶は黃枝、茉莉、秀英など香りのする花が入っている。」
かに、昔陳さんの屋敷は淡水河側にあり、淡水河の景色を見える豪邸でした。裕仁太子が台湾に訪問した時も、ここでお茶を飲みました。
ドラマの中に、立石鐵臣の役がいなかったけど、立石鐵臣と陳清汾が二人とも「台陽美術協會」のメンバーで、たぶん、立石さんはしょっちゅに陳さんの茶館(錦記茶行)でお茶を飲んだり、絵を討論したりしました。常に、画家は自分が好きな景色を描き、彼の絵が台湾人の生活に親しみで、きっと台湾が大好きでしょう。また、立石鐵臣と台湾人の画家の間に、きっと単純な友達の関係を持って、植民地の支配者の日本人と支配された本島人の関係ではないでしょう。立石鐵臣さんと台湾人の友人の関係はもし文字で記録されてない場合、風と共に去ります。しかし、彼の筆で描いた台湾はすべてを説明するようです。
【地址】 台北市貴德街73號
立石鐵臣の「揀茶キュンテェ」の中に書いた陳清汾の茶館(錦記茶行)
人生は不思議なものだと思います。人との出会いにはすべて理由があるとと思います。私にとっては、ある長い間に付き合っている日本人の友達は私を日本植民地時代の台湾の美術世界に連れ込んだ人だと思います。彼女は何回も台北に来たことがあるけど、台北市立美術館へ行ったことがなかったです。その理由で、2012年に彼女は台北に駐在しているうちに、一緒に台北市立美術館へ行ってきました。意外に、郭雪湖先生の作品の《南街殷賑》を拝見しました。私にとっては、この絵がただ鮮やかな色で描いた賑やかな迪化街の作品です。しかし、私の友達はこの絵に深くに引き込まれ、この絵を研究始まりました。その後、彼女は自分のブログの中に、郭雪湖先生の《南街殷賑》に関する研究文章を発表しました。なかなか面白い視点でこの絵を分析したので、私は中国語に翻訳しました。--郭雪湖---「南街殷賑」---一位日本人不一樣的繪畫鑑賞
2016年、この友達はまたFBで立石鐵臣さんの絵を紹介しました。ですから、立石鐵臣さんは台湾の民俗絵をたくさん描いたことが分かりました。その上に、私は台湾で出版された《立石鐵臣 台灣畫冊》という本を拝読しました。立石鐵臣さんは多分、一番早い台湾の庶民生活をスケーチした画家だと思います。また、台湾の庶民生活のスケーチに日本語で説明したが、日本語の漢字に台湾語の発音を片仮名で付けました。たとえば、「揀茶」をキュンテェの発音に付けいました。立石さんはきっと、流暢な台湾語を話せる方だと思います。それで、立石さんの絵を見ると、親切な感じをしています。
これらは私が日本時代の台湾画家を知ったきっかけです。その時、私はただ面白いだと思い、あまり夢中になってなかったです。しかし、先日、林育淳さんが講演した「臺灣文化DNA-從郭雪湖1930年描畫故鄉大稻埕/北美館鎮館名作《南街殷賑》談起」で、私は日本時代の台湾美術に一層深く認識されました。講演会の中に、台湾のテレビ番組の《紫色大稻埕》を言及しました。
その故、私はドラマの《紫色大稻埕》を見ました。主人公の江逸安さんの原型は「錦記製茶會社」の陳清汾さんの背景と部分物語を借りて、殆どが想像とフィクションした語りですが、主人公を中心として、その時代の画家だちと繋がって、《紫色大稻埕》の物語になりました。私はドラマを見ながら、主人公と共に、日本時代の台湾画家と大稻埕の歴史を少しずつ理解していきました。
この時、再び、立石鐵臣の「揀茶」を見ました。何となく嬉しいことです。「揀茶」という絵に、書いたのは下記の通りです。
「古い台湾人街、淡水河に添って茶館が並ぶ、河にジャンクが入り、貿易の便のためであった。陳清汾先生の館もこの一角である。停仔腳と言って、二階の下が歩道になっているのは暑い台湾の全ての道に面した家のやり方である。茶館には再製工場と輸出業店との二種類があり、茶の種類には烏龍茶、包種及紅茶の三種がある。包種茶は黃枝、茉莉、秀英など香りのする花が入っている。」
かに、昔陳さんの屋敷は淡水河側にあり、淡水河の景色を見える豪邸でした。裕仁太子が台湾に訪問した時も、ここでお茶を飲みました。
ドラマの中に、立石鐵臣の役がいなかったけど、立石鐵臣と陳清汾が二人とも「台陽美術協會」のメンバーで、たぶん、立石さんはしょっちゅに陳さんの茶館(錦記茶行)でお茶を飲んだり、絵を討論したりしました。常に、画家は自分が好きな景色を描き、彼の絵が台湾人の生活に親しみで、きっと台湾が大好きでしょう。また、立石鐵臣と台湾人の画家の間に、きっと単純な友達の関係を持って、植民地の支配者の日本人と支配された本島人の関係ではないでしょう。立石鐵臣さんと台湾人の友人の関係はもし文字で記録されてない場合、風と共に去ります。しかし、彼の筆で描いた台湾はすべてを説明するようです。