偽裝渡航
作者相田全民先生在十數年前寄給我閱讀的文章,日前整理資料時,重新閱讀此文。徵得相田先生的同意,將文章整理出來,希望可以有更多的人得以閱讀。相田先生依真實的故事編寫而成,故事裡的台灣醫生夫婦是相田先生的朋友,相田先生去他家時,巧遇這二位台灣出生的日本人,離日返台前,相田先生到長崎車站為他們送行,而後他們由門司港搭船返台。周醫生如果還在世,應該有八十幾歲了,周太太則已去世多年。
這篇小說,說明了當時台灣和日本的關係,日據時期在台出生成長的日本人,台灣才是「故鄉」,日本反而是一個遙遠的國度,但因日本戰敗,不得不返回日本。可以藉由此文瞭解1945年前後,日本及台灣的一部份關係。
內容是1945年國民政府接收台灣後,在長崎當醫生的台灣人周醫生和日本妻子喜久子決定返台當中華民國國民,同時,日據時期在台的日本人必須遣返回日本。當時有二位在日從軍的台灣出生日本人想要回到台灣找尋家人,委請台灣醫生協助一同返台。當時喜久子將心愛的縫紉機拆下,請其中一位年輕人幫忙帶回台灣,但返台後一直沒有取回縫紉機,錯綜的歷史背景之下,在數十年之後,周太太收到了原來的縫紉機及一台全新的縫紉機,故事由此展開。
由於沒有時間譯成中文,只能提供我重新打字後的文章,給懂日文的朋友閱讀。
偽裝渡航
本篇文章原載於「長崎文學」第十一號(平成元年12月10日(1989年))
作者:相田全民
「周先生の奥さん、荷物ですよ」配達人の叫ぶ声がして 喜久子の前に、いきなりドヵンとニ個の大きな正立方体の捆包が置かれた。彼女の腰の高さ程もあろうか、一体誰からだろうかといぶかりながら、手伝いの人に頼んで、夫が経営している周医院に隣接する居宅の中に入れてもらった。終戦直後日本を出発してから、ここ夫の郷里、台湾の台東にやってきてからもう四十四年にもなるが、今までにこんな大きな荷物が到着したことなど、ついぞなかった。
差出人の欄には住所の記入がなく、日本人の姓と思われる田代という漢字の二字が書かれているのみであった。不
審に思って一つの荷を解いてみると日本製の電動式ミシンが出てきた。押しボタン一つでジグザグ縫い、釦つけ、裾のかがりまでもできる最新式の物である。次ぎに、もう一つの荷物を開けた途端、喜久子は「あッ!」と声をあげた。四十数年も前、喜久子が愛用していた足踏式のミシンである。どうして今ここに、誠に不思議な現実に身震いするよ うな感情が彼女の全身を襲った。一九八九年、彼女の父祖の国では年号が昭和から平成に変わった年の夏のことであ
る。中には手紙が入っていた。
「奥様 お届けするのが、たいへん遅くなつてしまいました。お許し下さい。御迷惑かけしましたお詫びに、新しいミシンを添えさせていただきます。失礼とは思いますが、お受けとり下さいませ。田代拝」喜久子は何がなんだか分
からなくなつてしまった。
一九三九年(昭和十四年)長崎に住んでいた喜久子は、台湾から来て長崎医大に在学していた周と知り合い、猛烈な恋愛の末結婚し立山町に居を構えた。周は一九四三年(昭和十八年)春に卒業し医師の資格を取ると、大学病院の医局に入った。当時戦争は激化する一方で、日本の若い医局員は相次いで軍医として召集されていたので、何人かいた台湾人の医師の存在は貴重なものであった。終戦の年の前半B29一機が白昼不意に飛来し、長崎駅構内を爆弾攻擊をした「長崎駅空襲事件」の時にもすぐに現場に駆け付け、怪我人に応急手当を施したし、佐世保市街地に対し夜間に行われた、しょうい弾による大空襲の際にも軍の要請で、翌朝直ちに学生を引き連れて長崎から教援活動に赴いた。
八月九日原爆投下の時には爆心地に近い医大は壊滅的な打擊を受け、多くの職員が殉職したり負傷をしたりしたが、幸い周は軽傷ですんだので、救急診療所で被爆者の医療に
寝食を忘れて活躍した。立山町の自宅は爆風で瓦が飛び窓ガラスは飛散したものの、爆心地からは山の陰になり、まずまず助かった方であった。周は自宅に医局の看護婦を七名連れてきて宿とさせた。彼女らは、寮も病院も失ってど
こにも住む所がなかったのである。周と喜久子は心のやさしい夫妻であった。夜は全員でざこ寝をしながら、乏しい食料を分かち合い面倒をみた。やがて彼女らは、一人一人と実家へ帰郷したり親類の家を頼ったりして立山町の家を去って行った。
終戦になって、戦乱状態が終わると、周の家は今度は長崎在住の台湾人の集会所になった。彼は地位もあり面倒見も良いので、同胞から頼られていた。彼ら台湾人にとって日本の敗戦という事実は、日本人以上に運命的な出来事であった。一八九四、五年(明治二十七、八年)日清戦争で日本勝利の結果、日本は台湾を領有する事となった。したがって彼らは日本統治下で生まれ、日本人として育って
きたのに、日本の敗戦を境として台湾は中国の一つの省、台湾省となり身分は自動的に中国人、即ち戦勝国民となってしまったのである。
周の家に集まる者達は日本人である女主人の喜久子のことを慮ってか、お互いの会話には全部日本語を使った。喜久子がいちど気をきかせて、周と日本語で話している来客に「私に遠慮なされずに御自分達の言葉でお話しになって結構ですよ」とすすめると、私と周先生は同じ台湾でも場所が異なるので言葉が違うのですよと答えた。喜久子は果
たしてそんな事があるのだろうかと不思議でならなかった。いずれにしても家の中の会話は日本語だけで続けられた。
当時日本の食料事情は底をついていた。彼らは苦心してをに入れた食料を持ち寄ってきて融通しあったり、時局の推移を語りあったり、台湾式の将棋に興じたりなどしていたが、台湾に引き揚げるか否かの問題に、いつも時間を割いていた。「戦災や原爆で打ちひしがれ、まひ状態になってしまった日本にこれ以上残るよりも、新生の台湾に帰り、国の発展に貢献すべきではないか」というのが過半数の意 見であった。周の気持ちも次第に帰台に傾いていった。
ある夜、皆が帰ってしまって静かになってから周が「僕は台湾に帰ろうかと思うのだが、君はどう思う?もし反対なら日本に残ってもいいんだよ」と喜久子に意見を求めた。
「何をおっしゃるのですかあなた、私はあなたの妻です。あなたの行きたい所にはどこにでも喜んでついて行きます」
「さすが大和撫子だね、有り難う」周のほほに涙がつたわった。もしこの申し出が突然であったら、さすがの喜久子も動転したかも知れなかったが、連日の話し合いを耳にして内容が判っているだけに、すでに心の準備は十分に出
来ていたのである。
秋になり、いよいよ台湾へ行く船が門司から出航することになった。その数日前のこと、通称予科練として知られる、旧制中学の卒業を待たずに航空兵に志願する制度の海軍甲種飛行予科練習生の服装をした二人の青年の訪問を受けた。勿論、終戦と共に日本海軍は終焉をむかえているので、彼らは除隊兵である。
「こちらは長崎の台湾の方々の本部になっているとか聞きましたが」
「いや、本部というわけではありませんが、集合場所というか連絡場所になっています」周が答えた。
「実は私たちは台湾で生まれ育った日本人ですが、予科練に志願し入隊するため内地に来たものです。兩親など家族は台湾にいます。他の内地出身者と違い帰るべき家を待ちません。皆様が台湾にお帰りになる時、連れて行って下さいませんか、お願いします」二人は深々と頭を下げた。一人は田代、もう一人は杉本という青年であった。台湾に住んでいる日本人の師弟である。
その夜、周は同胞の集まりの折に、この事を皆に計った。連れて行く、行かないで大激論になったが、連れて行くという意見が過半数を占め、とうとう二人の青年を台湾人として連れて行くということに決まった。当然の事として二人が台湾に着いて家族と合流しても、日本の敗戦の結果、在台湾の日本人は全部日本に引き揚げる運命になっていたので、早晚又こちらに戻されるわけであるが、台湾に在留
している日本人や軍人は多く、全部引き揚げてしまうのに は相当期間を要することが予想され、二人の、一刻も早く家族と再会し無事を確かめ合いたいだろう心情を思うと、無理をしてでも一緒に連れていってあげよう、という結論に達したのである。二人は台湾人になりすまして行くのであり、もし当局に発覚した場合には本人たちはもとより周たちにも災いが及ぶことは必至であった。しかし乍ら、皆の温かい気待はその危険をも省みなかった。
出発の二、三日前から立山町の周宅に田代が泊まり込みで転宅の加勢に来てくれた。喜久子は田代の荷物が少ないことを知り、分解した足踏みミシンを背負って持って行ってららうように頼んだ。彼は快く承諾した。
いよいよ出発の日がやってきた。「よっこいしょ」田代 がミシンと共に立ち上がる。
「帰ると思うと、心がうきうきしてくるね」田代は隣りの杉本に話かけた。
「うん」杉本は答えた。しかし二人の心の内は、これから待ちうけている運命を案じ不安で一杯であった。波らは敗戦後、日本の支配の及ばなくなった台湾に帰って行くわけである。引揚船は門司から出るので、一行は先ず長崎駅から夜行列車で門司港駅に向かうこととなった。喜久子にとっては、いつ日本に戻れるかも判らない異国の旅立ちであったが、愛する夫、周を信じていたし夫もまた喜久子を愛していたので、夫と分かれて日本に渡り、暮らしていくなどとは到底考えることもできなかった。腹の中には愛の結晶の子供を身菴っていた。
原爆の後、急造されたバラック造りの長崎駅前の広場には、今夜台湾へ出発する一行八十人位と、それをはるかに上回る見送り人達でごった返していた。見送りの中からは、大きな中華民国の国旗、晴天白日旗が振られていた。つい何ヶ月前の敵国旗に送られて出発することに、喜久子は複雑な思いであった。また長い年月の間、日の丸の旗の下にあった台湾人にとっても感慨深いものがあった。
夜行列車は闇路を門司へとつっ走る。周達のグループの十数人は日本語を使っていたが、もう、一行の過半数の人が交わしている言葉は喜久子の理解出来ないものとなっている。
翌日夕方門司港を出発した引揚船興安丸は一路九州北岸の沖を西進し台湾に向かった。皆甲板に出て、日本最後の灯りを眺めながら名残りを惜しんだ。敗戦国の引揚船は日の丸を揚げることすら許されていない。気強い性格の喜久子もさすがに涙ぐんでいた。周が優しくその肩を抱いた。五、六メートル離れた所には田代と杉本が不安そうに九州の海岸を見つめていた。敗戦国民が逆上陸する密航がばれたら、家族と再会するどころか、軍事裁判にかけられ、悲惨な結果に終わるかも知れない。それを思うと二人の体の中に恐怖心が走った。
しかし波らは自分達を庇ってくれている周夫妻やそのグループには非常に感謝していた。海はだんだんと荒れ出し、ローリング、ピッチングがひどくなつてくる。喜久子は初
めての航海で吐き気をもよおしてきた。「船室に降りよう」周の言葉で身重の喜久子は周に抱き抱えられてハッチの方へ移った。翌々日の午後台湾の玄関、基隆に上陸の予定である。
到着の日がやってきた。その日は朝から未だ台湾の島影も見えないというのに船内は明るい笑顔で満たされていた。日本各地から約六百人が乗船してきたが、その中には喜久子のように結婚して夫の国へ渡る力ップルが五組もいた。
台湾が見えた時の感動を喜久子は到底ロで表す事が出来ない。美しい蓬萊の島には南国の陽がさんさんと降りそそいでいた。海は次第に穏やかになり船は静かに基隆港に入港した。
「奥さん頑張って下さい」事情を知っている船長が、わざわざ喜久子の所まで来て励ましの声を掛けてくれた。船長の話では、この船は今度はすぐに台湾から日本への引揚者を满載して、とんぼ帰りをするのだという。
一行の殆どの者は凱施将軍の気分で上陸を開始した。入国審査所へ行く途中栅を隔てて、台湾から帰国する日本人の引揚者の一団が見える。敗戦国に送り帰される彼らの表情は台湾への帰国者とは対象的に暗かった。
台湾が日本領となってから半世紀、多くの日本人が台湾へ渡って来て住みついた。これら在住日本人は敗戦で総て日本へ帰国しなけれはならない。その中には台湾で生まれ育ち、祖国日本を見たことがない者も多い。
「あッ、うちの家族がいます」田代が不意に声を上げた。田代の父母と弟の三人が日本への引揚者団の列の中にいるのを発見したのである。田代が手を上げると先方も気付き栅の方に寄ってきて、お互いの奇遇に驚き喜び合った。
「台湾人ということにして来たんだよ、お父さんたちがこんなに早く帰国すると思わなかったから、僕も一旦、台湾に入ってから一日も早く日本に引揚げるように努力するか
ら」と小声でささやいた。警備官がその光景を見て黙っていた。恐らく旧知の者同士がたまたま逢ったったものと思っていたのであろう。
杉本も、もしや自分の家族がいないものかと、盛んに目を動かして探していたが、見付け出す事は出来なかった。
日本から戻った台湾人一行の入国手続きは短時間で終わった。あとは各々自分の鄉里へと急ぐばかりである。「家族と入れ違いになって残念だったね」周夫婦が田代を慰めた。田代は落胆しきっていた。こんなに家族の帰国順番が早いと知っておれば、なにも危険を犯してまでも台湾に来ることはなかったのである。もっとも家族の無事を確認出来た分、田代の気持ちを安堵させたことは事実である。田代は周夫婦に、
「自分が住んでいた家がどんなになっているものか見たいし、友人とも会いたいので高雄に行ってきます。そのあとミシンは台東のお宅へ届けにまいります」そう言って周夫婦たちや花連港に向かう杉本と別れた。
それから四年の歳月が経過した。田代に預けたミシンはいつ迄経っても喜久子の許に帰ってこなかった。彼女は失望すると共に憤慨した。周と新所帯を持った時苦心して一
やっと手に入れたミシンである。夫婦にとってそれは単に布を縫う実用的機械という以上の、喜びや悲しみ苦しみに立ち合ってくれた、かけがえのない家族の一員であった。それに喜久子にとっては同じ日本人である田代の背信行為
が許せず、周に対してものすごく恥ずかしい思いをしたのである。時々そのことを口にすると、
「あの混乱時の事だ、何か手違いがあったに違いない。いいではないか」と逆に喜久子を慰めてくれた。彼は日本人が引揚げる時残していった中古のミシンを買って与えてく
れた。
台湾に来て数年間、この地はまさに激動期であった。中国本土の内戦で、毛沢東の率いる共産軍との戦闘に敗れた国民党系の軍関係者や一般人が、後から後から海峡を渡って台湾へとやってきた。彼らは外省人と呼ばれた。周のように元々から台湾に移住している本省人とは、同じ漢民族ではあるが、長年分かれて暮らしていたので、生活環境や意識が異なり、お互いにそりが合わず、台湾全土にわたり争乱が起こったこともある。省政府にとっては両者の調整が大きな問題であった。また山岳には山地同胞という日本统治時代に高砂族と呼ばれた原住民が住んでいて漢民族との融和上の問題があった。
周家にも色々なことが起こった。まず夫の実家に着いて 早々に驚かされたことは、周には小さい時からの、許嫁がいたことである。周と喜久子は相手方の家に行って両手を付き、頭を床にすりつけて謝った。先方の母親からは毒づ
かれたが、父親は、妊娠していることでもあるし、あきらめようと言ってくれた。しかしそのお詫びに、いざという時に換金出来るように、無理して日本で買って持ってきた 夫婦の貴重な財産である金時計や指輪十個を全部差し出してしまった。その後喜久子は女の子を産んだ。周の父母はあい次いで亡くなった。しかし代々医業である周家は比铰 的安定した生活を続けることが出来た。
五年目に喜久子は一時帰国したくなった。それは日本が恋しくなったからであったが、その折田代を探しだし、好意を裏切った事をとっちめて、出来たらミシンを取り返したかった。もしミシンの現物がない場合でもその代価を払わせようと思った。
これ程さように、あの新婚の思い出に繫がるミシンには 執着心があったのである。田代が戦後長崎の家に周を尋ねて来た時「今、西彼杵群のB村の父親の兄の家にやっかいになっています。家族が台湾から引揚げて来ても、恐らくそこを頼って来ることになるでしょう」と言っていたのを 覚えている。そこを尋ねて手掛かりを摑もうと思った。
難かしい渡航手続きも周の奔走で済ませ、いよいよ喜久 子は日本へ出発することになった。当時台湾と日本の間の定期航路は途絶えていた。台湾籍の小さな貨物船に便乗し、揺られに揺られ三晚を船舶上で過ごした後、九州沿岸にたどりついた。やはり久し振りに見る故国の風景は喜久子の胸を躍らせるものがあったし、終戦後に周と渡台した時のことが懐かしく想い出された。今回は五歳の娘との二人旅である。
門司へ上陸し汽車で長崎に着いた。宿泊先の友人宅に娘を預けると、すぐに西彼杵群のB村に向かった。まだ舗装されていない道路をバスに揺られ、やっとB村役場前のバス停に着いた。
「台湾からの引揚者、田代さんがこの近くにおられませんか」と老夫婦に尋ねると「ああ、ここばまっすぐに半時間ばっかし行かっせば、左に登る道のありますけん、ずうっと登らすと二十分ばっかしで着きますよ」と教えてくれた。
登り口で逢った中年の夫婦にまた聞くと「田代さんは、私と同じ隣保班ですけん、一緒に行きましょで」喜久子は
隣保班という言葉が今なお、この地に残っているのを懐かしく感じた。それにしてもこの親切な夫婦は、喜久子がミシン取り返しの談判、いうなれば喧嘩のため相手の家に乗り込むとも知らず、連れて行くと言ってくれる。もし招か
れざる客と判れば、こうは言わないだろう。そう考えると、何だか婦人の気持ちを裏切るようで「私はちょっと疲れとりますから、ここでひと休みしてから登ります」と木陰の大きな石を見付けて腰を降ろした。
「そうですか、それじゃ早う行って田代さんに教えときますけん」どこまでも思い遣りのある婦人である。五分位の間隔をおいて喜久子は山道を登っていった。岡の上に明らかに田代家の本家と思われる家と、分家らしい粗末な家があり、分家の家の前には四十代後半の夫婦が何事だろうと立って待っていた。
「どうぞ、お上がり下さい」夫婦は喜久子を中へ招じ入れた。
「私は田代さんという予科練から復員した方を台湾にお連れした者ですが」
「ああ、あなた様でしたか、せがれが大変お世話になりました、あれも運がなくて死んでしまいまして」
「えッ、何ですって?」予期せぬ父親の言葉に思わず声を上げた。
仏壇にはまぎれもなく田代の軍服姿の写真が飾ってあった。意外な成りゆきに喜久子は驚いたが、心を静め仏壇に向かって焼香し、懐紙を取り出していくばくかの御仏前を置いた。
「後で調べて判ったことですが、あの子は私たちよりニ力月遅れて日本へ引揚げて来ました。どうしたものか、上陸
地は広島県の大竹でした。私のときは、佐世保でしたがね。 あの子はこちらへは帰らず撗浜へ行って、戦災を免れた工場に職を求め施盤工として働いたのです。予科練に志願する前は学徒動員で台湾の軍需工場で施盤を操作していましたので技術は持っていたのです。何故にこちらに帰らなかったのか、今でも見当がつきません、簡単な手紙が来ましたが、それには、日本に引揚げ、ある所で元気に働いている、事情がありそこがどこかは言えないが、そのうちにお父さんお母さんのもとに帰ってくると書いてありました。引揚げてから二年目の夏、横浜から電報が来て、あの子が
事故死したとの通知があったのです。すぐに家内と共に駆ぬけ付けようとしましたが、なにせ戦後の混乱時、汽車の切符が仲々買えなくて、四、五日してやっと一枚だげが手に入り、私だけが行きました。夏のこととて、すでに火葬してあり、お骨と予科練の軍服とポケットに入っていた海軍の携帯履歴表、それに当時としては大金の五千円入った貯金通帳を遺品として渡されました。うちの住所はその履歴表の本籍地から分かり、会社の人が連絡して下さったので す」父親が経過を説明すると母親がその時のことを思い出したようで声を上げて泣き出した。しばらくして母親が立ち上がり、遺品の服を持ってきて見せた。まさしく長崎の
家を尋ねてきた時の物で裏には田代と名前が書いてあった。
「遺品にミシンがありませんでしたか」と喜久子が尋ねた。
「いいえ、ミシンがどうかしましたか」母親が不審そうな顔をした。
とっさに適当な言い訳が浮かばなかったので、少し間を置いてから「軍隊では衣類の纏いも自分でしなければならず、縫いものに興味が湧いたので、もし台湾の日本人が引
き揚げの際残していったミシンがあれば日本に持って帰り たいと言われていましたので」と話をそらした。
「そうですか、あの子がねえ」
母親はしんみりとした表情を見せたものの、別に不自然な様子もしなかったので、喜久子はほっとした。
喜久子は田代の両親を慰めて緒に近くの墓に行ってお参りした。
お世話になった方だから、と夫婦は取り立ての西瓜、きゅうり、トマトを田代の弟にリュックサック一杯背負わせ、バスで喜久子に同行させ宿泊先の長崎の友人の家まで送らせた。そのリュックッサクを背負う姿は終戦後、兄の田代がミシンを背負って渡台した折の事をほうふつさせた。食料難当時のこと、喜久子は友人に対しても肩身の広い思いがしたので、台湾から持ってきていた砂糖をお土産に待たせた。当時、日本では砂糖は貴重品であった。
田代に対する恨みはその時点で霧散してしまった。
一九七七年(昭和五十二年)夏の事である。
「こちらは菱井物産の台北支店ですが、もしかしたら周先生の奥様は、日本の長崎の方ではありませんか」と女性の声で中国語の電話があった。
「はい、そうですが」受話器を取った周が答えた。
「恐れいりますが、杉本支店長に代わります」
「周先生、私です。终钱後台湾に渡るのにお世話になった予科練の杉本です」
「あァ、杉本さん、懐かしいですね、その後どうしておられましたか、ところで今台北に居られるのですか?」
「はい、私はあれから家族と合流し日本に引き揚げ、苦学して東京の私大を卒業して菱井物産に入社しました。実はこの度台北支店長を命ぜられ赴任して来たのです」
「そうですか、ぜひ、お会いしたいものですね、菱井物産といえば世界でも有数の商社ですね、御出世おめでとう。」
「あッ、たった今患者さんが見えたので、後でこちらから家内に電話を入れさせます。近くの市場に買物に行ってますかすぐに戻ります」
帰宅してその事を夫から聞いた喜久子は、急ぎ台北の菱物産に電話を入れた。
「奥さんお元気でしたか、あの時は大変お世話になりました」杉本のはずんだ声が耳に入った。
「何年ぶりでしょう、そして貴方は此の度台北に来られたんですって?ぜひ近々うちへ尋ねて来て下さい」
一ヵ月後、杉本は妻を伴って、それこそ山のように色々の土産を持って周夫婦を尋ねた。土産はテープレコーダー
からご飯のふりかけに至るまで、日本産の実に様々の品物であった。台湾に引き揚げる時の思い出話などに花が咲き、夜の更けるのも忘れるぐらいであったが、田代の話題に及
ぶと、座がしんみりとなった。
「どうして、御両親の所に戻らなかったのでしょうかね、杉本さん何か心当たりがありませんか」喜久子は親友の杉本が何かその秘密でも知っているのではなかろうかと颜を親き込むようにして尋ねた。
「全くありません、戦友会を二年に一度開いていますが、いつも皆で田代は若くして死んで、可哀想だったと話して
います」
周は久し振りに妻以外の者と日本語が話せる機会を待ててご機嫌であった。
「ところで、田代が運んだミシンはまだ使っていられますか?」
喜久子は田代がミシンを持って来なかったこと、しかし彼はすでに鬼籍の人でもあり、その事は忘れてしまっている、と説明した。杉本はそれを聞いて、友人田代の裏切り行為に憤概すると共に、周夫婦に対しとても気の毒がった。
周夫妻と杉本夫妻は、その後時々お互いの家を訪問し合い親交を深めていった。
一九八三年(昭和五十八年)杉本は会社を定年となったが、業績拡大の功績をかわれ、支店顧問として更に三年間
台北に滞在し日本へ帰国した。周夫婦は盛大な送別会をして見送った。
それから、三年たって今日、新旧二つのミシンが喜久子に送ってきたのである。
一瞬喜久子はこれは杉本が田代名で送ったものかと思ったが、すぐにその考えは打ち消さなければならなかった。二つのうちの一つが喜久子の愛用していたミシンだったからである。杉本が持っているはずがなかった。しかし他に思い当たる節もないので、杉本の郷里、日本長崎県北高来群J町の家に国際電話を入れてみた。
「杉本さん、田代さんに預けたミシンが送って来たのですよ、それに新品のミシンまでが。この事をあなたはどうお
思いになる?」
「思い当たる節があるんです。渡航手続きができ次第、台湾のお宅に参ります。明日早速福岡の亜東協会に行って、ビザの申講をし航空会社にも寄って日本アジア航空か中華航空の台北行のキップを手に入れます」
日本と国交のない現在、領事館の役目は亜東協会という機関が行っている。台北にもそれと対応する日本の機関がある。日本アジア航空も日本航空のダミーである。
周夫婦に逢った杉本は挨拶もそこそこに早口で喋り出した。
「菱井物産台北支店長時代、妻と二人で台湾各地を観光して回ったことがあります。山地同胞と呼ばれる原住民が住
んでいる山岳地帯にも行きました。K村という所で原住民 の人達がラフルな民俗服を纒い観光客向けに歌や踊りを披露していました。百人位の者がリーダーの采配のもとで実に整然と、観光ずれをしていない真面目で素朴な、それでいて大変楽しい踊りを見せてくれました。
出し物が替わる休憩の時間に私は手洗いに行きました。立って用を足していたら、たまたま民俗服に着飾ったリー
ダーが隣りに来て私と並んで用を足し始めました。そばで見ると何だか旧知の人のような気がしてなりません。橫顔をじっと見つめていると彼も私の顔を覗き込むようにして見ています。年齢は大体同じ位です。彼は不意にかたことの日本語で『ニッボンキタカ』と話かけたのです。その意 味は日本から来ましたか、または日本人ですかの意味と解
し『日本人です』と答えました。
そのリーダーはすぐに仲間の所に戻り次ぎの踊りの指揮を始めました。
私は踊りを見ているうちにその動作の中に田代の面影を感じたのです。『田代かも知れんばい』反射的に私のロから長崎の方言がついて出ました。私は台湾と外地で生まれ標準日本語で育ち、引揚後も東京の大学や職場で標準語の雰囲気の中にいましたが、何かというとつい長崎弁が出るのです。台湾には日本各地からやって来た人が大勢居て表面上は標準語に統一されていました。しかしそれだけに、誰もが出身地の言葉に郷愁を感じていたようです。両親は家の中では長崎弁を使っていました。当時は私にとってもまだ見ぬ土地でしたが長崎県人会の集まりなどにも父母がよく連れていったりしてくれましたし、郷土というものに限りない親しみを抱いていたのです。家の中では長崎弁でした。田代など長崎県人の二世と話す時、他県出身者の前で聞こえがよしに長崎方言を使ったりして得意がっていました。もっとも今考えると標準語とチャンボンのおかしな言葉だったのですが、ただそんな時長崎弁というか長崎の
方言を使おうと心がけていたことは、自分にも祖国日本に長崎という故郷があるのだというアイデンティティ確認のあがきだったのでしょう。それはそうと、その田代とおぼしき男も踊りながらじっとこちらを見ている気がしました。しかしまさかと思ったのです。彼が引揚げ後両親あて横浜から送った自筆の手紙も見ているのですから。
踊り場を出ぎわに私は両手を使い海軍時代に習った手旗 信号で言葉を送ってみようと思いました。御存じかもしれませんが手旗信号はカタカナにもとずいて両手で字を書くもので海軍の教育では必須のものでした。実際は右手に赤 左手に白の小旗を使うのですが、旗がない時は手だけでもかまいません『キサマワタシロカ』と書きました。貴様は 海軍で同僚などを呼ぶ時の用語で、助詞のハをヮと書いたのは手旗では誤解を避けるため発音の通り書くことがきまりだったからです。書き終えてから私は思いきり両手を上
に伸ばしました。信号文の修了を意味するのです。彼も両手を上に伸ばしました。もしその手を左右に揺らすと了解という信号になります。しかし彼は左右に動かす仕草をちょっと見せたものの、両手をま横に伸ばしたり斜めにしたり忙しく動かしました。あたかも私の手旗をおどけて真
似したように。
「周先生、奥さん、きっとあの男が田代だったと思います」
翌日杉本と周夫婦の三人は、周の往診用の車で杉本と交替で運転しながら、その踊り場への登り口である軽便鉄道
のP駅へと向かった。そこまで約四時間の行程である。周
夫婦は娘一人しか恵まれなかったが、娘婿が医者で周医院で動いているので留守の間の心配はない。P駅的の駐車場に車を預ぐ山上に登る軽便鉄道に乗り換えた。台湾各地からきた観光客と日本人観光客が半々である。関西弁がいやに耳につく、高度が増すにしたがって窓の外の樹木の様子 が段々と変わって来る。途中のK駅で下車した。ニつ先の 駅はこの铁道の終点だということである。殆どの乗客がぞ ろぞろと下車してしまう。周夫婦は杉本の案内で、関西からの観光団がわいわい騒ぎながら旅行社の係員の点呼を受けているのを横目に、原地人の踊り場へと急ぐ。小学校の校庭の広さ程もあろうか、と思われる広場へ出た。入口に約四十人の赤黄緑などのカラフルな民俗衣裳を身に着けた男女が迎えてくれる。台湾の観光客には「ファンィン(歓 迎)フアンィン」日本人には「いらっしやいませ」とか「こ
んにちは」と歓迎の挨拶して、心良いムードを盛り上げてくれる。
例の男が奥の方にいて観光客の来入を見ている。杉本がそれとなく周夫婦にその方を指し示した。
出し物が始まった。彼の音頭で百人位が民俗音楽を歌いながら手振り身振りよろしく楽しい踊りを見せてくれる。クライマックスに達した時、拍手喝采である。アンコールが皆のロからついて出る。
「やはり私の勘は当たっていたでしよう」の問いに「確かにそのようだなあ」と周が医師としての表情で答えた。
ひとしきり踊りを終わると今踊った者達が、手に彫刻な どの民芸品をたずさえ観光客に売るため群がって来る。
杉本と夫婦の三人は、ぐんぐんリーダーのそばこ近サ、ついていく、三メートル位の間隔になった時相手は^本に気がついた。そして「ニッボン マ夕 キ夕力!」と興奮した声を上げた。だがすぐに、悠然とした物腰にもどった。しかし何となく無理をしている様子でぎこちない。横に立っている周夫婦に気がつくと、ギクッとした表情てなり内心の狼狽を隠せなかった。
「ミシンありがとう」周夫人喜久子がいきなり日本語で話しかけた。
「ミシン?ソノコトば シラナイ」不意打ちを食、衝撃を受けた顔で口ごもった。
突然杉本が右手で相手の左手首を強く握りしめ、左手で肘まである肩かけをめくり上げた。杉本は柔道五段である。
「田代、貴様は田代だ!」大声を出した。旧戦友である杉本は田代の左上腕の外側に大きなホクロがあるのを知っていたのである。杉本は更に右手に力を入れ、相手の肘をね
じり上げ「田代だろうが!」と叫んだ。「痛いじゃないか、杉本手を離せ!」日本語が返ってきた。
「杉本、周先生、奧さん、私は田代です。御迷惑をおかけしました」観念した様子で首をガクンと下げた。
「踊りが終わってからゆっくりお話します」田代は踊りの列に戻った。その表情は心なしか晴ればれとしていて、顔は三人の方を見つめ笑みさえ浮かべながら踊っていた。
田代の話しはこうである。
終戦後周達の好意で台湾に着いてから入隊前に家族と住んでいた高雄に行くと言って別れたが、実はミシンを背負ったまま真直ぐにこのK村に来た。それはここの酋長の娘であるカガンと再会し一刻も早く無事を伝えたかったからである。田代の父は田代が幼少の頃、台湾総督府のこの辺りの行政を司る郡役所に勤めていた。田代はこの地によく遊びに来て原地人から可愛がられた。カガンはニつ年下の幼なじみであった。その後は父の転勤で高雄に転居したが、予科練に入隊が決まり内地に出発する時、この地へカガンに別れにやってきた。
「飛行機に乗って、祖国の為に戦う。もう君と生きて会うこともないだろう」田代の思いもよらぬ言葉にカガンはその大きな二つの目に悲しみの涙をいっぱい溜めて泣いた。别れぎわに、二人は立ったまま、抱き会った。一九四三年 (昭和十八年)田代十七歳、カガン十五歳の時である。それから二年半振りの再会であった。
「ミチオ ヨク イキテ力エッテ キタネ」カガンは别れた時と同じ目に、今度は嬉し涙を溜めた。
田代には、もう一人逢いたい者が高雄にいた。中学の同級生である親友の黄である。高雄の自分の住んでいた家も
見たかった。
「今度は高雄に行ったらすぐここに、戻るよ、一週間か十日位で」
「ホントウ? ニッボンジン ミナ クニ ニ カエルト キィタヨ」
「また必ず戻って来るからね」ミシンをカガンに預けて田代は高雄に行った。
長年住んでいた懐かしい家を訪れてみた。玄関には市政府所管の貼り紙がしてあった。家の中に入ってみると、畳はそのままであったが、ガランとしていた。品物は父母が処分したのであろう、何も残っていなかった。市中に青天白日旗がホリ翻り、日本の軍や警察に代わって、将介石揮下の
中国国民党系の軍や警察が幅をきかせていた。まだ日本人の未引揚者が多数残っていたので、田代が不法入国者だとばれる恐れはなかった。道で逢った旧知の者はびっくりして「内地の海軍航空隊に入隊したはずだが」と声をかける。その時は
「うん、そうだよ。でも終戦直前、台湾にある航空隊に転属して来ていたんです」と答えてごまかした。
親友の黄を訪ねた。彼は元気だった。両親を早く亡くし た黄は中学生時代叔父の家の庭に小屋を建て一人で暮らしていたが、叔父一家は田舎へ引揚げ、家は人手に渡っていた。彼は前の小屋にそのまま住んでいた。
「夕シロ I!」「コー」共に男泣きをしながら抱きついた。二人はどんな秘密でも打ち明けて話すことができる朋
友の仲である。
田代は黄を信頼しているので、いかなる手段を使って今 回台湾に来たかとか、K村に行ってカガンと逢ったことなどを話した。黄が田代を公安当局に密告する恐れは皆目ない。
その夜二人は寝ころびながら朝まで語り合った。
「残念だが日本人が台湾に居残ることは許されない。俺も一般邦人と一緒に日本に行かねばならない」田代はあえて日本へ帰るといわず、行くという言葉を使った。田代のように台湾などの外地生まれの者にとっては日本は他郷としか思えなかった。それは今度内地の海軍航空隊に入隊してみて、日本内地育ちの者との考え方に達和を感じ、一層その思いを強くしたのである。
黄は何を思ったのか、ガバリと起きて田代の方を向いて座ると、思いもかけぬ事を言い出した。
「田代!俺は日本に行くことが小さいときからの夢だった、憧れだった。お前に化けて、すなはち俺が田代三千男という人間になりきって日本に行けないだろうか」
「えッ、何ということを言うんだ」
「お前がびっくりするのも無理はない、しかし俺はどうしても日本に一度は行ってみたかった。二、三年したら、密航でもなんでもして必ず戻ってくる。そして入れ違いに今度は本当の田代三千男が日本に帰国するのだ、それまでカガンの所で待っていてくれ」
黄の強い気持ちを察し承諾した田代は、予科練の軍服、携帯履歴表を渡し、それに父母が安心するように、日本に帰っているとの手紙を書いて、日本に到着後すぐに投函するようにと頼んだ。
黄の日本語は完全であるので、まずは外国人と疑われる 恐れはなかった。そういう次第で黄は日本人の田代三千男として日本へ渡った。手紙は日本で投函され、両親のもとへ送られ両親は田代が日本のどこかに住んでいるものと信じていたと思う。
ところが黄の消息はそれっきりで台湾へ帰って来なかった。黄は裏きるような男でない。釈然としない気持のまま
一年、二年がたっていった。
自然の成りゆきのように田代はこの地でカガンと結婚した。そして長男、次男の男の子が生まれた。三年目、四年目に田代は何回もミシンを背負って周夫婦を訪ねて行こうかと思った。しかしその事がかえって公安当局の懐疑の眼を呼ぶことになり、周達が田代の台湾への密航をほうじょしたことがばれて、迷惑がかかるのではないかと危惧した。周達ばかりではない、義父母やカガンにも災いをもたらしてはと、彼は出来るだけ外部と関わりを持たぬように務め
ひっそりと生活していた。
この事情はカガンもよく知っていた。ミシンは遠慮しな がらカガンが使っていた。
五年後カガンはミシンを使って本格的な内職を始めた。田代は、もう黄が戻ってくることはあきらめていた。ほとぼりも大ぶん覚めてきたので、周夫婦にミシンを持っていきたかったが、今やカガンが半ば自分の物として使用して
いる。今更そのミシンをカガンから取り上げるのは残酷で、もしそうするならば、新しく代わりのものを買ってカガンに与えてやる必要がある。しかしその余裕はない。周に対
する良心とカガンへの愛情との板挟みになった。
田代はそれから彫り物などで、こつこつと、貯金を始めた。しかしわずかばかりの収入では仲々ミシンを買うまでには至らない。そうしているうちに使いなれたミシンは旧式になり、それを周夫妻に届けては失礼になるような気持 がした。
歳月は流れ、日本人や台湾の観光客がこの山の上まで押し寄せて来るようになった。田代は民俗舞踊を観光客に見せる事を思い付いて皆に呼びかけて始めた。幸いなことに、これがすごく当たったのである。勿論利益は全員に配当したが、田代の収入も今までの数倍に増えた。よし頑張って新式ミシンを二つ買って一つは周夫妻に一つはカガンに贈ろうと決心した。そして今年やっとその夢が実現した。以上の、うよ曲折の過去を田代は記憶のぺージを一枚一枚めくるように語った。
一同はシーンとしてしまった。
「田代!貴様の友人の黄という人は、田代になりきって横浜で働いていたが、ニ年後に事故で亡くなったんだ。御両親は貴様が死んだものと思い込まれている。この前お宅を訪れたが、お二人とも高齢にもかかわらずお元気だった。しかし弟さんは嫁をもらう前に亡くなっているので、御両親は農作業に人を雇われるなど大変苦労なさつている」
「そうだったのか」田代は愕然とし、しばし言葉を失った。
数秒いや十数秒近く経って涙を飲み込み、ようやくのことで
「そうだとは、露知らなかった、皆様に御迷惑かけました」とかすれるような声を出し、深々と頭を下げた。
皆が思いおもいの思惑を胸に咽び泣いた。
それからニヵ月後、日本の田代家の墓地に関係者が集まっていた。田代の両親、田代と妻のカガン、周夫妻、杉本夫妻、それに僧衣を纏った田代家の旦那寺の住職である。お墓は終戦後喜久子がお参りした田代家の墓とは違い、更に山手の方にあった。息子が本家の墓に居候していては肩身が挟いだろうと、新しく建てたのである。実は田代の両親は、同じB村ではあるが本家から歩いて二時間位の距離にある高原の開拓地を県の勧めで開墾し、生活の本拠もそこに移し、墓もその近くに造ったのである。その墓には黄
が田代になって埋葬されている。
昨日、本当に久し振りに両親と再会し妻カガンを紹介し た田代は、今日は紋付きに身を包んでいる。昨夜は今までの不孝を詫び、夜遅くまで色々な事を父母と話し合ったが、 今後は田代とカガンの夫婦だけでなく、台湾から次男一家の三人を呼び寄せこの地に定住し父母を助け農業に励むという決意を披露した。喜んだ父親は自分の紋付きを出して明日着るようにと言った。永らく異国に住んだ息子に一つの区切りとして、日本人としての自覚を新たにさせたかったのである。
墓には弟の戒名と並んで田代として黄が埋葬された時の戒名が赤い字で彫り込んであった。戒名は「台鳳院蓬萊日飛居士」とある。
読経を終え、骨壺を取り出し、持参した白木の箱に納めた。そして田代の腕にがっしりと抱かれた。
「黄!異国の土の下で長い間寂しかったろうなあ。遅くなってすまなかった。すぐ台湾に連れて帰るよ。高雄で立
派な葬儀をしてやるからな」悲しい親友との再会であった。
次に皆に向かって色々と迷惑かけたことを詫び、お世話 になったことを謝し、四、五日してから一旦夫婦で台湾に
戻って、後のことを長男に託し、次男の家族三人を連れてこちらに戻り、これからは先は一所懸命父母を助け農業に いそしむと決意を宣べた。
「和尚さん、この戒名は大変気に入りました。私が死んだら私のにして貰っても宜しいですか」
「ああ、いいですとも。しかし拙僧はあんたより年を取っているから、先に逝くことになるじゃろぅ。息子の副住職
に引き維いでおくからな」
「それでは、この戒名は消さずにそのままにしておきます。ただ日付だけは削ります」田代の言葉に皆が一斉に吹き出
した。
厳粛だった空気がほぐれ、いっぺんに和やかなムードに なった。
眼下には大村湾が広がっている古より「琴の海」として知られている、そのゆったりした平和そのものの海は、タ陽をいっばいに受け、きらきらと目にまぶしく実に美しい。
湾のあちこちの入江には真珠の養殖ィカダが浮かび、のどかな風景を見せている。海の向かうには秀麗な多良岳が望まれる。カガンは、その珍しくすばらしい光景に感激して見入っている。
彼女は夫から日本定住の相談を受けた時は、夢のような 話しで尻ごみをした。その後、決心がつき日本での新しい自分を描いてみたが、やはりまだ見ぬ日本への期待と不安 が入り混じって、眠れない日々が続いた。昨日中華航空で福岡に到着した時は大都会の喧そうに圧倒され、とまどったのであるが、夫の両親から温かく迎えられ安堵した。今日はまた美しい日本の自然に接し心を打たれている。そしてどんなに苦労が待ち構えていようとも愛する夫と共に農耕に励み、この夫の父祖の地に骨を埋めようと決心した。
国際结婚の先輩である喜久子が、励ましの意味を込めて カガンの右手を両手で強く握りしめた。カガンは台湾から日本へ来て定住することになるので、丁度喜久子の場合と反対になる。カガンが喜久子の手を握り返した。「私、頑張ります」との意思表示である。じっと大村湾を見つめて
いるカガンに喜久子が左の山並を指さし」「見てごらん」とやさしく声をかけた。そこには色着いたミカン畑が連らなって山肌を美しく黄金色に染めている。その牧歌的な風景を添景にカガンは思わずニッコリと喜久子を見てほほ笑んだ。 (了)
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