2016年10月25日 星期二

臺灣周遊唱歌

        台灣縱貫鐵路通車不久之後,於1910年(明治43年)2月20日發行《台灣周遊唱歌》。由宇井英作詞,高橋二三四作曲,宇井從事日語及國語教育,任教於臺灣總督府國語學校及師範學校 臺北師範學校熱衷於台灣鄉土文化,高橋1896年在東京音樂學校畢業後,1897年到台灣在臺灣總督府國語學校教授音樂。

        該曲歌詞以和歌的七五調寫成,共有90章,介紹台灣西部縱貫鐵路都市的地名物產、舊剎古廟、名勝史蹟、史話等台灣歷史地理,為日治時期台灣總督府在學校教唱的教材。

       Youtube 裡有已有中譯,可以聽聽看此曲

https://www.youtube.com/watch?v=IedLwDQXfVU


作詞 宇井英  作曲 高橋二三四

1 國光四海にかがやきて 東亞の空に覇をなせる
  我が日の本の新領土 臺灣島をさぐり見ん
2 南北長さ一百里 めぐりは二百九十餘里
  小島あわせて其の廣さ 九州とほぼひとし
3 山に金銀海に鹽 製茶製糖果實類
  水田に稻は二度みのる げに帝國の無盡藏
4 基隆港 のあさぼらけ 登る朝日のてりそひて
  輝きわたる其のながめ フオルモサの名も徒ならず
5 最北門の鎖鑰(さやく)にて 母國に渡る唯一の
  要津なれば朝夕に 出船入船絶え間なし
6 いざや西部をめぐらんと 汽笛一聲進み行く
  八堵七堵の次は五堵 水返脚の小市街
7 附近の山に石炭の 多く出づるを語りつつ
  南港錫口(しやくかう)忽ちに はや臺北に着きにけり
8 四面は山にかこまれて 地勢京都にさも似たり
  おのづからなる城壁は げに萬世のかためなり
9 君が御稜威に高砂の 浦囘(うらわ)の風もをさまりて
  此處に開けし總督府 文武の機關そなはれり
10 市街の規模は宏大に 道路平坦砥の如く
  下水工事に至るまで 水ももらさぬ工なり
11 幾百年後の膨脹を かねてはかりて定めたる
  市區改正の雄々しさよ  想ひやるだに頼もしや
12 支線に乘りて圓山の 臺灣神社をがみつつ
  基隆川をうちわたり 昔をしのぶ劍潭寺
13 夙に學者の淵藪と 稱へられたる士林には
  遭難六氏の碑石あり 芝山巖頭香をとどむ
14 硫黄を出だす北投は 音に聞ゆる温泉場
  湯浴みする人遊ぶひと 常に絶えずと聞くぞかし
15 左に高きは 大屯山 右に低きは 紗帽山 (しやぼうざん)
  群がる山の其の奧に  秀でて見ゆる七星山 (しちせいざん)
16 江頭(かんたう)過ぎて川岸に 沿ひつつ行けば淡水港
  河畔の丘にいかめしき 建物多く聳えたり
17 屋上高くひるがへる 同盟國の旗じるし
  問はぬ先にも知られたり 大英國の領事館
18 三百年の其の昔 萬里の波を凌ぎ來て
  武威を振ひしイスパニヤ サンチャゴ城此處に建つ
19 後に和蘭來てりしが 鄭氏代はりて此れに據る
  榮枯はうつる世のならひ 英雄のあと今いづこ
20 樓に登りて見渡せば 舳艪つらねてうち集ふ
  唐船(もろこしぶね)の數知らず 觀音山 下畫の如
21 此處の港を船出して 海路僅かに二百餘浬
  其の日の中に對岸の 廈門(アモイ)の港に著かるべし
22 再び歸りて本線に うつれば忽ち艋舺(マンカ)驛
  新店川の鐵橋も 瞬くひまにうち渡る
23 富豪林氏の邸宅の 甍(いらか)つらねて構へたる
  枋橋(ハンキョウ)越ゆれば樹林なり 山仔脚經て鶯歌石 (オウカセキ)
24 鳥のかたちによく似たる 巨石はたてり山腹に
  鄭軍砲を撃ちし時 頭(かしら)缺けぬといひ傳ふ
25 三角湧(さんかくゆう)は此の奧へ 一里あまりの小市街
  製腦事業見ん人は 更に山路を辿るべし
26 春桃園(はるとうゑん)の樂郷に 遊ぶもうれし秋は又
  大嵙崁(だいこかん)なる山奧に 奇巖を見るもおもしろし
27 蕃界近く踏入れば 兩岸けはしき谷川に
  藤にて造れる吊橋の あやふくかかる所あり
28 北部諸山の生蕃(せいばん)を 防ぐためとて要所には
  鐵條網を張渡し 隘勇(あいゆう)線を設けたり
29 崁仔脚(かんしきやく)をば後にして 中壢街を過行けば
  四面の畑はみな茶の樹 安平鎭の製茶場
30 本島特産烏龍茶 なほも紅茶の實況を
  知らんと想ふ人あらば 必ずくぐれ此の門を
31 楊梅壢より大湖口 紅毛田を過ぎ行けば
  はや著きにけり新竹に 此處は昔の竹塹埔(ちくざんほ)
32 清の雍正元年に 淡水廰を置かれけり
  城壁の跡猶殘り 舊刹古廟亦存す
33 市街の西方約半里 尖筆山のいただきに
  北白川の宮殿下 御露營ありし遺蹟あり
34 新埔は蜜柑の本場にて 北埔に椎茸多く出づ
  香山中港過ぎぬれば 次は造橋後壟(ろう)よ
35 後壟溪の鐵橋を 渡れば此處は苗栗ぞ
  石油の産地出礦坑 此れより四里の奧にあり
36 銅鑼灣、三叉河、後里庄 米の産地と名も高き
  葫蘆墩(コロトン)驛の近傍に 製麻會社を見て行かん
37 此處まで數里の其の間 地勢嶮岨の其の上に
  大安、大甲二溪あり 箱根のトンネル想ひやる
38 林投編みて作るてふ 淡水帽の産地なる
  大甲、通宵、宛里など 海邊に近き土地にあり
39 潭仔けん(土+乾)經て其の次は 中部一なる臺中よ
  清朝かつて此の土地に 臺灣府をば置きたりき
40 明治四十一年に  はじめて成りし鐵道の
  全通式を舉げたりし 此處の公園眺めよし
41 陶器を出す南投へ 輕便鐵道敷かれたり
  本島無二の別天地 埔里社はなほも奧と聞く
42 流石に猛き霧社蕃も かく首の刄うちすてて
  厚きめぐみを慕ひ來る 蕃産物の交換所
43 日月潭 の勝景は 蓬莱山もよそならず
  緑のかげには鳥歌ひ 瑠璃の水には魚躍る
44 烏日(うじつ)過ぐれば大肚なり 米の集散おびただし
  此處に河あり大肚溪 水に遊ぶは水牛よ
45 龍車に向かふ蟷螂が 斧を微塵に碎かれし
  彰化の東八卦山  中臺平野一ながめ
46 茄苳脚(かとうきやく)の其の次に バナナ朱欒(ザボン)の産地なる
  員林過ぐれは社頭なり 田中央 (でんちゆうおう)經て二八水(にはちすい)
47 全島一の大河とて 音に聞こえし濁水溪
  大雨(だいう)至れば忽ちに 平野變じて海と成る
48 林内(りんない)過ぎて車窓より かすかに見ゆる新高の
  山の高きは日本一 明治の帝(みかど)名を賜ふ
49 雲林今は斗六街 土匪のさわぎに大方(おほかた)は
  兵火の災に罹りにき 他里霧(たりむ)の次は大埔林
50 打猫の西方三里なる 北港街の媽祖宮は
  四方の信仰厚きこと 本島一と聞こえたり
51 林爽文(りんさうぶん)の騒亂に 時の帝が住民の
  義勇嘉してつけられし  嘉義のほまれは碑に殘る
52 此處に至らば農會の 苗圃(びようほ)に足を運ぶべし
  小河めぐれる丘の上 見渡すかぎり檳榔子(びんろうじ)
53 大森林の阿里山 は 此れより數里奧にあり
  枝を交ふる木々の蔭 晝猶暗ものすごし
54 鐵道線路の右側に 立つる目標見おとすな
  北囘歸線此のあたり はや熱帶の客と成る
55 此れより南部おしなべて 甘蔗の畑打ち續き
  製糖會社そ此處こに 煙突高く競ひ立つ
56 水堀頭より後壁寮(かうへきりよう) 鹽水港の市街あり
  布袋嘴(ほていし)よりは 鹽産す
57 林鳳營 經て 蕃仔田 灣裡(わんり)を過ぎて 新市街
  大目降は此の東 糖業試驗所設けらる
58 南部のみやこ臺南は 本島中にふるくより
  開けし地とて人多く 名所舊蹟亦多し
59 陸軍衞戍病院は 和蘭人の築きたる
  赤崁樓 (せきかんろう)のありし跡 三層樓閣聳えたり
60 鄭成功を祀りたる 延平王の祠(やしろ)あり
  領臺以後に改めて 開山神社と稱せらる
61 義烈壯烈母刀自の 大和魂受継ぎて       (栗原郡民註 鄭成功の
  社稷の為に竭(つく)したる 君が譽は千代朽ちず  母堂は邦人、平戸の田川氏)
62 魁斗山上(かいとさんじやう)五妃の墓 寧靖王のきさきたち
  操まもりて此の土地に 果てぬと聞くもあはれなり
63 全臺首學と記したる 大成殿の建物は
  公學校に充てられて 今猶吚唔(いご)の聲を聞く
64 僭して此處に臺灣の 王と名のりし朱一貴が
  住みし昔の宮居あり 今法院を此處に置く
65 そぞろに涙其のかみを しのびまつるも畏しや
  北白川の宮殿下  此處にみ罷り給ひけり
66 君の敕(みこと)をうけたまひ 近衞の兵をひきつれて
  島を平らげ給ひたる 親王(みこ)のみいさを忘るなよ
67 名は安平と聞こゆれど 港次第に埋もれて
  大船岸につながれず  風波を凌ぐ便りなし
68 赤崁城趾大榕樹 遙か沖よりながめらる
  海を行くひと此の樹をば 目當てとなして往來す
69 此れより海路五十二浬 澎湖島なる媽宮港
  みなとの内は水深く 大艦巨舶泊(とど)むべし
70 更に汽車にて中洲庄 車路けん(土+乾)過ぎて大湖街
  半路竹(はんろちく)經て阿公店 橋仔頭より 楠仔坑(なんしかう)
71 東北指して行くときは 蕃薯(いも)に名を得し蕃薯寮 (ばんしよれう)
  樟腦出だす甲仙埔 急ぐ旅とて立寄らず
72 舊城(きゆうじやう)過ぎて打狗港(たかおかう) 縱貫鐵道此處に盡く
  商船常に輻輳し 百貨は日々に山を爲す
73 なほも支線に乘りかへて  三塊厝 (さんかいせき)を通り過ぎ
  をんらい(パインアップル)出づる鳳山に 曹公圳 を探るべし
74 後庄越えて九曲堂 一里東に 阿緱街
  下淡水の河口に 東港といふ港あり   (栗原郡民註 海軍要港ありき)
75 此れより五里の海上に かすかに見ゆる小琉球
  長さは一里幅半里 何れの家も鹿を畜(か)ふ
76 枋寮 枋山 楓港と 海邊の路を辿り行く
  山はせまりて海をせめ 波は激(げき)して岩を噛む
77 車城に注ぐ四重溪 其の川上の石門は
  兩岸いはほそば立ちて 恰も門の状(さま)をなす
78 明治七年我が軍が 頑強なりし牡丹社を
  劇(はげ)しく攻めし所なり 途に記念の碑を探れ
79 皇澤日々に霑(うるほ)ひて 學びの庭に蕃童が
  われ劣らじと集ひ來て 御國言葉の花ぞ咲く
80 氣候はいつも暖かに 春の如しと聞こへたる
  恆春街にいたりなば 求めて來たれ胡蝶蘭
81 此處にて西部はてぬれば 海路東岸さぐらんと
  たよりを待ちて海濱の 大板轆(だいはんろく)を船出せり
82 バシイ海峽隔てたる ルソンと遙か相むかふ
  最南端の鵞鑾鼻(がらんび)に 大燈臺を設けたり
83 鼻をまはりて北方に 船路をかへて進み行く
  海上遠く紅頭嶼 雲か山かと薄がすむ
84 島のめぐりは九里あまり 太古のさまを見る如き
  いとあはれなる蠻民(ばんみん)が 二千許りも住むと聞く
85 やがて卑南(ぴなん)に寄港せり 臺東一帶未開の地
  天與の遺利(いり)は 其のままに 人の來たりて取るを待つ
86 黒潮に沿ひ進みつつ 次に立ち寄る花蓮港
  移民の計劃歩を進め 開拓事業起りたり
87 此れより沿岸二十餘里 幾千尺の斷崖が
  海にせまりて聳え立ち 船を寄すべき所なし
88 蘇澚の港に船をすて 宜蘭の平野を横ぎりて
  其れより山路分け入らば 深坑(しんかう)地方に到るべし
89 濱邊の路を越え行けば 三貂角 (さんしようかく)は右に出づ
  領臺役まつさきに 近衞の軍の上陸地
90 此れより元へ歸る道 黄金掘出す牡丹坑(ぼたんかう)
  尚も瑞芳 金瓜石 (きんかせき) 寶の山は連れり


【參考資料】

片倉 佳史,台湾鉄路と日本人―線路に刻まれた日本の軌跡,交通新聞社出版,2010年2月

中央研究院台史所,台灣總督府職員錄系統http://who.ith.sinica.edu.tw/

2016年10月24日 星期一

片倉佳史的「台湾鉄道と日本人」一書


台湾鉄路と日本人―線路に刻まれた日本の軌跡
片倉 佳史 (著)
交通新聞社新書出版
2010年2月
台灣鐵道和日本人


  作者片倉佳史因為對台灣感興趣,因而花了很長的時間研究日本殖民地時期的台灣,書中細訴日治時期的台灣鐵路發展及變遷,對於想瞭解台灣鐵路歷史的人而言,應是一本非常好的入門書。

  本書介紹清末、日治到2009年左右的台灣鐵路發展。光緒十一年(1885年),清廷派駐臺灣的首任總督劉銘傳在台7年,為了台灣的產業發展,於1887年修5月20日設立全台鐵路商務總局,招聘英國及德國技師,建了臺灣的第一條基隆-台北-新竹鐵路,最早完成台北大稻埕到錫口(松山)間路段,1890年完成台北基隆線,1891年通車,原本預計敷設台北到台南路段鐵路,因1891年劉銘傳辭官而停止,現存古蹟為基隆的獅球嶺隧道。

  日本領台初期,原本的鐵路設備簡陋,加上抗日民眾的諸多破壞,日軍為運輸軍需物資以鎮壓激烈抗日的台灣人,逐進行鐵路的修繕,最初以簡易形式設台車軌道,亦稱之為「軍用軌道」。台人抗日行動較為平靜之後,兒玉源太郎總督及後藤新平民政長官時代決定今日台灣縱貫鐵路的基礎建設,進而得以發展各種產業,並且有助於日本政府快速的獲取台灣各地的農礦產。

  日本帝國為了開發台灣而建設縱貫鐵路後,方便探尋煤炭等礦產資源、搬運農作物以及採伐阿里山等良木,為了運送地方礦產及農作物建立各地方的鐵路支線,最早的鐵路是為貨運而建,鐵路線也可匯集到港口,以利方便出口台灣的貨物,台灣形成單一的經濟圈及物流圈。

  另外,尚有製糖鐵道的私鐵為運送台灣的蔗糖,客運主要為「台車軌道」,這種簡易的鐵道必須有人推台車,主要做為日人的移動及日人官吏視察使用,平地的台車車伕為台灣人,山區車伕則為原住民,如同支配者與被支配者間的構圖。在日治時期森林鐵道運送木材除了阿里山鐵路之外,尚有專門運輸太平山的木材到羅東的羅東林鐵,當然鐵道設立之前要先平定世居太平山泰雅族的反對勢力,木材到了羅東,再接宜蘭線火車到蘇澳港出口。 

  最後,介紹『台灣週遊唱歌』,內容說明當時台灣每一個車站附近的物產及歷史,做當時學校教育的教材之用。

2016年9月20日 星期二

《紙上明治村:消失的臺灣經典建築》新書座談


夜晚的紀州庵
   
        第一次參加新書座談會,地點在紀州庵文學森林。

       本書的作者凌宗魁和繪者鄭培哲一同以書中的圖片帶參加者進入台灣的古蹟世界。

       凌宗魁說故事,鄭培哲藉由僅有的照片重繪出古蹟的樣貌,案例的選擇沒有特別的安排古蹟的時間和空間,端憑作者的喜好。有些古蹟已消失,有些還活著,作者藉李乾朗教授的一段話形容古蹟的生命:「建築和人一樣也有生老病死,經此生如果此生有機會和古蹟存在同一個時空裡,那就是你和這個古蹟的緣分。」熱愛古建築的人浪漫的將建築的生命擬人化,也許可藉以釋懷美好建築的逝去。

        作者形容得知三井倉庫的拆除,如同好朋友被殺,那種心痛可能只有熱愛古蹟者能理解。 

        但是,古蹟究竟是一棟建築物,如果不知道這個房子的故事,對不懂建築藝術的我而言,不過就是漂亮的房子,經由作者說的故事,可認識到曾經存在台灣的人事物,繪者除了重繪古建築,圖中總會繪入在活動的人,建築如果缺乏人的味道,它就是一個建築作品吧!

2016年8月29日 星期一

Cá viên chiên Vũng Tàu--頭頓海灘的炸魚丸攤

頭頓海灘的炸魚丸攤




        20160312頭頓海灘上的炸魚丸攤,其實我本來不知道這是什麼?畫下來之後,查字典才知是“炸魚丸 ”, 當然我也不知道是什麼樣的味道?





Cá viên chiên Vũng Tàu
Tháng ba,, tôi đến Vũng Tàu du lịch với bạn. Tại bãi biển Vũng Tàu, có nhiều người bán hàng bán “Cá viên chiên”. Nhưng tôi không biết món ăn này là cái gì, chỉ có chụp photo.


ブンタウビーチの揚げ蒲鉾団子屋台

今年の三月、友達と一緒に、ベトナムのブンタウビーチへ遊びに行ってきました。そのビーチに“Cá viên chiên”の屋台がたくさんありました。屋台の色が可愛いから、写真を撮りました。あの団子はどんな味かな?

2016年8月23日 星期二

堤岸水兵街萬濟堂 Nhà thuốc Vạn Tế Đường đường Thủy Binh Chợ Lớn--Chinese medicine shop on Rue des Marins


堤岸水兵街萬濟堂 (1961, Photo by Jack Garofalo/Paris Match via Getty Images)
Chinese medicine shop on Rue des Marins

  堤岸 [萬濟堂] 由福建省客家人黃銘棣所創,妻為羅氏,子:金帶、爵盛、金財 嗣女順娘。而後,長子黃金帶繼承:妻楊氏,子:六德、璋德、培德 生女 阿妹。後由孫黃璋德:妻張氏美芬,生子:家榮、家國、家發、家勇。

        陳興道B段的萬濟堂,其前身為水田棧涼茶店,是專門煎煮廣東羅浮山的山草藥的涼茶店,該店擁有不少獨家配藥方,包括膏丹九散,體內發熱、感冒、咳嗽、發燒、頭痛等疾病和雜症,兩三碗下肚自會藥到病除,這家超過半個世紀的傳統式涼茶店,因後人改行停業。

         Do Đỗ Tam Quốc 向現在的店家,買下了萬濟堂遺留的物品。1961年照片中的人是誰呢?


廣濟堂止截發冷膏葯印章--QuocDo’s collection

"萬濟堂自辦廣東羅浮山聖藥發客"之扁額--QuocDo’s collection

萬濟堂的老照片----QuocDo’s collection

萬濟堂的前身為永田棧涼茶鋪,資料來源:陶妙萍作品



  參考資料:
http://blog.sina.com.cn/s/blog_5318d3180100a0lp.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_5318d3180100a0ap.html
http://www.fengtipoeticclub.com/03Fengti/daodieubinh/daodieubinh-e069.html




                                                  Vietnamese article translated by Nguyễn Minh Vũ

Nhà thuốc Vạn Tế Đường đường Thủy Binh (Rue des Marins) Chợ Lớn

Nhà thuốc Vạn Tế Đường ở Chợ Lớn được sáng lập bởi Huỳnh Minh Lệ, một người Khách Gia tỉnh Phúc Kiến, lấy vợ họ La, có ba con trai là Kim Đới, Tước Thịnh, Kim Tài và một con gái là Thuận Nương.

Con trai trưởng Huỳnh Kim Đới nối nghiệp. Có vợ họ Dương, ba con trai Lục Đức, Chương Đức, Bồi Đức và một con gái A Muội.

Đời tiếp theo con trai thứ Huỳnh Chương Đức nối nghiệp. Có vợ tên Trương Thị Mỹ Phân, sinh được bốn người con trai là Gia Vinh, Gia Quốc Gia Phát, Gia Dũng.


Vậy cuối cùng anh chàng đang tươi cười trong bức ảnh kia là ai?



2016年8月2日 星期二

高度経済成長下のベトナム農業・農村の発展--高度經濟成長下的越南農業及農村的發展

           
「高度経済成長下のベトナム農業・農村の発展」坂田正三アジア経済研究所出版,201312



 「高度経済成長下のベトナム農業・農村の発展」是一本關於越南農業的調查報告作者在北越社科院研究員的協助之下在越南農村實際做訪問調查台灣好像沒有這類的越南農業農村的調查覺得有好奇



序 

高度經濟成長下的越南農業・農村—越南農業・農村發展的「新段階」

第1章 現代越南農業經營規模擴大及其雇用的吸收力
第2章 湄公河三角洲稻作農家機械化的發展
第3章 合作社政策性的期待和實態—以越南南部水果產地的事例
第4章 天然橡膠生產經營和雇用勞動—平陽省的事例調査分析
第5章 越南的地方雇用機會和農村世帯的就業・家計構造—芹苴市後江氾濫原的一農村現狀
第6章 越南的工業區開發和農村非農業就勞機會的増加
第7章 越南紅河三角洲地域的「專業村」之勞動市場—聚集在農村的非正式組織及其雇用

資料來源:http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Books/Sousho/607.html

編者: 坂田正三簡介:
http://www.ide.go.jp/Japanese/Researchers/sakata_shozo.html